日記「花ひらく人生」
2010年05月31日
爆弾より、水を。
「平和」とは…?の思いを胸に抱いて過ごすなかで
一冊の書物に出会いました。
――アフガンとの約束 中村 哲 × 澤地久枝
ペシャワール会の中村医師については、911事件後、
「テロ対策特別措置法」国会特別委員会での参考人として、
あるいは2008年8月、アフガニスタンにて現地武装派に殺害された
伊東正之氏の報道に際して、メディアに度々登場されましたので
皆さまよくご存じのことと思います。
テレビに映る医師は常にうつむき加減、まるで晴れ晴れとも堂々もせず
苦渋と不信感に満ちたような暗い瞳をしていることが強く心に残っていました。
それは長年に渡って苦難を耐えて続けている人の姿そのものでした。
この本をきっかけに中村医師の本を読みはじめて
氏の瞳が見つめてきたものの一端を理解するようになると
ああなるほど、と、思わずにはいられません。
「日本の戦国時代」といわれるようなアフガン社会で活動する氏が、
激しい民族対立や諸外国、諸団体の醜い駆け引きに翻弄される中で
人間のむき出しの憎悪(愛憎も含め)、狂気と露骨な形を見せつけられ
そしてまた、それと全く同根の人間の性を日本の社会にも見出して
深い絶望や恐怖を感じないことはなかったでしょう。
それでも、病の苦しみが癒えた人の笑顔に、
岩を穿って掘り上げた井戸にたまる水に、
砂漠の地に用水路が走り、芽吹く緑に、
苦難は一瞬にして吹き飛び、心からの喜びを感じたことでしょう。
なぜ、アフガンなのか?
なぜ、そんな苦労をしてまで?
ノンフィクション澤地久枝さんが、誰しも抱く疑問への応えを
見事に引き出しているのが最初に紹介した対談集です。
中村医師の血族や、宗教的なバックボーンとアフガンとの赤い糸が見えてきて
この視点から彼の活動や歩みを捉えてみても素晴らしい長編小説ができそうです。
中村医師のご著書からの引用をご紹介いたします。
アフガニスタンは日本人にとって最も解りにくい国の一つである。
様々な意見や解釈が飛び交い、実像をつかみにくい。いわば「情報の密室」である。しかし、今
アフガニスタンで進行している出来事はやがて全世界を巻き込む破局の入り口にすぎない。
私は九州と東部アフガンしか知らない田舎者である。人は自分が生きた時代と地域の精神的な気流の中でしか、言葉を発することができない。だが、どんな小さな村や町も世界の歴史の反映ではある。25年前、遠いお伽の国の話だと思っていたことが一人の日本人としてこれほど身近になったことはなかった。
世界中で「グローバル化」の功罪がささやかれるが、その不幸な余波をまともに受け続けているのがこの国である。
「アフガニスタン」は良きにつけ悪しきにつけ、一つの時代の終焉と私たちの将来を暗示している。
「破局」といえば響きが悪いが、それで人間の幸せが奪われる訳ではない。
人間もまた自然の一部である。
ヒンズークシュの壮大な山並みと悠然たる時の流れは、より大きな目で人の世界の営みを眺めさせてくれる。時と場所を超え、変わらないものは変わらない。おそらく縄文の昔から現在に至るまで、そうであろう。
私たちもまた時代の迷信から自由ではない。
分を超えた「権威ある声」や、自分を見失わせる享楽の手段に事欠かない。
世界を覆う不安の運動――戦争であれ何かの流行であれ――に惑わされてはならない。
もし現地活動に何かの意義を見出すとすれば、確実に人間の実体に肉迫する何ものかであり、
単なる国際協力ではなく私たち自身の将来に益するところがあると思っている。
人として最後まで守るべきものは何か、尊ぶべきものは何か、示唆するところを汲んでいただければ幸いである。
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』
だが狂気もまた「信念」によって組織されてきた現実を忘れることができない。
アフガニスタンでは鮮明な形で現れたが、他を顧みぬ暗い狂気は平和時にもある。
それは人間ひとりひとりの中に巣くっている虫だからだ。
魔女狩りの集団狂気は、近代ナショナリズムや社会思想に引き継がれたが、
その反動もまた、同じ土俵を出ることができなかったと言える。
昨今、先進国では21世紀へ向けて新たな希望や絶望が語られる。
だが私たちは20世紀はおろか、古代や中世社会の野蛮さえ克服していない。
『医は国境を越えて』 中村哲 石風社
中村医師の著書がひとりでも多くの方の手に取られるようにと、強く願います。
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